ひっそり閑と佇む神々の御座。
2011年12月某日
古代中国から伝えられた陰陽の影響から、日本には古くから“奇数”を縁起の良い陽数として崇める思想がある。中でも「七」という数字は特に好まれた。日本各地に残る「七福神」もそんな人々の生活から生まれた土着信仰である。ここ鬼怒川にも、もともと信仰されてきた土地の神々に七福の縁起をなぞった“七福神巡り”があるらしい。神仏への帰依を意識する12月。ホテルで目にした“七福神めぐり”の地図を片手に静かな冬の山里を歩いてみた。
最初の「弁財天」はホテルから歩いて10分ほど、くろがね橋を渡り「湯の川公園」から線路沿いの国道21号線を龍王峡方面へ右折、鬼怒川ロープウェイと隣接した温泉神社内にある。神殿は護国神社本殿のとなり、見晴らしのよい高台にあった。ここは春は桜の名所のようだ。今はまだ冬枯れの古木が寒風に耐えるように身を寄せ合っていた。お参りをすませ、もと来た道を戻る。20分ほど歩いただろうか。鬼怒川温泉オートキャンプ場の看板の場所に「馬頭観音群」とある。せっかくだからと探してみると、観音群は3mほど登った土手の上の枯草の中にひっそりとあった。その数11体。味わいのある穏やかな微笑みが印象的だ。像ごとに寄進された時代が異なるらしく中には天明(1781〜1788)や弘化(1844〜1847)の元号も読み取れた。
ぬくもりを宿す、ふるさとの原風景。
旅人を包む里の語り部たち。
次の「寿老人」は鬼怒岩橋を渡ったオートキャンプ場方面。上滝と呼ばれるこの付近は、ゆったりとカーブを切る道のところどころに蔵が立ち、色付いた柿やミカンの色彩が日本の昔話を思わせる。速足で歩くには少々もったいない日本の原風景だ。春になれば美しい花や緑がほころぶのだろう。熊野神社「寿老人」はそんな感懐を深める屋敷森の一角にあった。本殿は新しく立派な覆屋もある。隣りには宮守のものだろうか、よく手入れされた段々畑があり片隅には冬桜も咲いていた。
第三の「福禄寿」は、その熊野神社から道を挟んだほぼ向かい、杉木立の参道を10mほど進み階段を上ったところだ。鳥居には「慈眠神社」とある。社は2間四方の覆屋に収められた楚々とした木造りで中には木彫りの福禄寿も祀られていた。参道も本殿もコンパクトだが、厳かな雰囲気にあふれ風情がある。社の右手には屋敷神だろうか、古いちいさな祠もあった。これが元々の姿だったのかもしれない。
少し強くなってきた風に思わず防寒具の襟を正す。道はつづら折りで細くなり急な下り坂になってきた。川が近いようだ。途中、こんもりと茂った竹林がサワサワと音を奏でる。第四の上滝地蔵堂「布袋」の入口の案内板は寒椿に覆われていた。目指す神殿へは宮守らしき家主の屋敷と作業小屋の間の細い道を、裏庭へ抜けていかなければならないらしい。少々恐縮しながらも、私有地に勝手にお邪魔するスリルさは愉快でもある。家屋の裏の森の中にあった社は屋根が曲線形に向拝になった流れ造りで、重厚感あふれる堂々たる佇まいだった。
翡翠色の川面にたどる遠い夏の記憶。
悪戯心で楽しむ少年遊び。
川へ下りる坂道のカーブを曲がった瞬間、突然、目の前に現れた景色に思わず息を飲んだ。そこにはゆったり横たわる山を背景に千畳敷のような段丘の河川敷を従えた鬼怒川の姿があった。天空には一羽の鳶が悠々と旋回している。鬼怒川上滝河川公園のようだ。周囲にはキャンプ用のコテージ棟や宿泊者用の贅沢な露天風呂棟も見える。桜並木の遊歩道や親水公園も整備され、夏のにぎやかさを彷彿とさせる。懐かしい記憶がよみがえり、思わず親水公園の中州に続く大小の飛び石を子供のようにジャンプして渡ってみた。
戊辰の激戦を物語る大松の逸話。
荒々しい岩肌と清冽な水が守る神域。
第五の小原熊野神社「大黒天」は、踏切を右折した通称“鬼怒の古道”、会津西街道沿いにある。大黒天は鳥居も社も木造で、覆屋は格子戸の建具があしらわれていた。隣には苔むした狛犬や祠、白壁の蔵もあり、撮影には絶好の雰囲気だ。二礼二拍一礼をし狛犬にも軽く会釈。
「大黒天」を後にし、同じ道沿いにある第六の「毘沙門天」へと向かう。途中には「弾除けの松 二世」として、慶応4(1868)年の戊辰の役の折、佐賀藩陣地jから発射されたアームストロング砲の榴弾から大松に身を隠し、会津の兵士が難を逃れたという“弾除けの松”の二代目の若松がある。資料では平成8年の突風で一代目の大松が倒木したとある。隣りには地蔵菩薩が守る古木の切り株が堂々たる姿をさらしていた。
「毘沙門天」はその松からすぐ先にあった。入口に案内板を見つけたが、宮守の屋敷は長い道を入ったはるか向こうにポツリとしか見えない。道を進むと木工所らしき工房が現れた。顔を出した女性が社はもっとずっと奥です、と親切に教えてくれた。神殿はそこから再び渓谷に沿った山道を100mほど歩いた先にあった。岩盤を取り入れた造りは、猛々しい迫力がある。かっと目を見開き邪気を払う不動明王像は今なお地元の篤い信仰を集めているようだ。傍らには小さな渓谷が寄り添うように流れ凛とした清冽な空気が満ちていた。
古戦場跡地に建つ鎮魂の社殿。
細緻な彫りに見る匠の祈りのかたち。
七福神めぐりもいよいよ最後のひとつ、小原沢帝釈天「恵比寿」(商売繁盛)を残すのみ。鬼怒川小学校を右手に過ぎ鬼怒川公園のカーブを左に曲がったこのあたりは戊辰街道と呼ばれ、かつて官軍と幕府軍(会津)が激しくぶつかりあった古戦場だったとある。悲劇の舞台は今となっては石碑と案内板のみでしか知ることができない。その一角に「日蓮上人遺跡帝釈堂」の看板が見えた。拝殿へ続く参道も立派に整備されている。社殿は木立の中にあり流麗な彫りが施されていた。大きさも造作もかなりもののようだ。社の左右には龍の浮彫と丸彫の技法で鷹が小鳥を狙うデザインが施されている。しばしその見事さを鑑賞。思わぬ“七福”のご褒美を得た気分。
ホテルを出発して約7kmの行程は2時間半程度で回れるようだ。道は整備され年配者も気兼ねなく歩ける。車で通れば小さなエリアだが、歩けば景色の変化もあり神殿の個性が興味深く、何より土地の人々に敬われ慕われる神々との対話が楽しい散歩道だった。肝心のご利益だが、歩くことに怠惰になっていた身には、リフレッシュと健康増進につながるこの清々しさがそうだと言えるかもしれない。心地よい疲労で歩き終え、ささやかな達成感で内心得意げになった私を突然、師走の寒風が震え上がらせる。なるほど、自然に教訓あり。奢らず油断するべからず、そんな神々の高笑いが聞こえてきそうだ。
【鬼怒川七福神巡り】詳細
鬼怒川温泉に古くから点在する七つの郷社を七福神になぞらえ、ウォーキングを楽しみながら回れる温泉街歩きコースとして設定。コースは平坦で整備されており、階段も少なく歩きやすい。土地の守り神として脈々と守り続けられている小さな祠にも大きな力のある神仏が祀られており、個性あふれる素朴な社をめぐる旅も鬼怒川の隠れた一興。
■鬼怒川温泉七福神
・温泉神社(日光市鬼怒川温泉滝)‥弁財天
・上滝熊野神社(日光市鬼怒川温泉滝)‥寿老神
・慈眠神社(栃木県日光市鬼怒川温泉滝1078)‥福禄寿
・上滝地蔵堂(日光市鬼怒川温泉滝)‥布袋尊
・小原熊野神社(日光市藤原)‥大黒天
・小原沢不動尊(日光市藤原)‥毘沙門天
・小原沢帝釈堂(日光市藤原)‥恵比寿
■馬頭観音群
馬頭観音は、馬方達が厳しい峠越えで息絶えた馬や行き倒れの旅人を慰霊したものと言われる。
■鬼怒川上滝河川公園
鬼怒岩橋から龍王峡ライン(有料道路)に向かった鬼怒川河川敷に広がる公園。川沿いには桜並木の大滝河川遊歩道があり、春は花見行楽、夏は河川で水遊びが出来る。隣接する鬼怒川温泉オートキャンプ場には日帰りもできる露天風呂がある。
■弾除けの松二世
慶応四(1868)年、戊辰の役の小原沢決戦の折、鬼怒川右岸(和田沼)の佐賀陣地からのアームストロング砲の榴弾を会津の兵が松の大木(推定樹齢400年)に身を隠し、難を逃れたと言われる。平成8年の突風により倒木した大松の逸話を後世に伝承するため現在は二世の若松が傍らに移植されている。
■鬼怒川公園
鬼怒川公園駅の近くにある公園。園内には露天風呂もある公営の温泉施設があり、電車待ちの時間を利用して立寄るなど、家族連れやグループ等に人気がある。内風呂は檜と岩の2種類。
■古戦場跡
戊辰戦争の激戦区であった小原沢地区。この付近は“大べつり”と呼ばれ馬がやっと一頭通れるほどの小道に加え、大きく蛇行した切り通しの登り坂だったことから、追撃する政府軍を迎え撃つ会津軍との壮絶な戦いが繰り広げられた。敷地内には両軍の戦死者が刻まれた殉難碑もある。